立ち読み
表紙・目次から本文20ページと次章「ずれ」の扉までを、実際の本の紙面でお読みいただけます。
まだ名前のつかない感覚が、胸の奥でひっそりと芽吹く瞬間がある。それは痛みだったり、静けさだったり、土のにおいのような懐かしさだったりする。ほんのかすかな合図なのに、まるで「もうすぐ、なにかが変わるよ」と知らせてくれるような、あたたかな気配。
大学で教育を学び、教える側になり、大学院で研究をし、妊娠出産、子育て。そのどれもがたしかにわたしをつくってきた。けれど、同じ場所に長く身を置いていると、その世界の空気があまりに自然になりすぎて、疑うことさえできなくなってしまう。一体どこまでが枠組みの中の価値観で、一体どこからが自分の価値観なのだろう。
この本は、これまで書き溜めてきた日記、読んでいた本の断片、フリースクールで出会った風景、森のようちえんに通う日々、令和七年に立ち上げた対話の場での気づき、そして母になったことで変容する世界の見方を静かにつないでいく試みである。何か明確な答えを差し出すための本ではない。むしろ、問いがどう生まれ、どう育ち、どう変わっていくか、その軌跡を辿るための本。
矛盾を抱えたまま、揺れたまま、それでも生きる日々の記録であり、わたし自身の育ちの物語だ。二十代を終え、三十代に突入する節目に書き記しておくことは、なんだか自分にとって必要なことであるという気がしたのだ。
読んでくださるあなたの内側にも、大切だったはずなのにいつのまにか忘れていた、微かな記憶の気配や景色がふと立ち上がる。この本が、そんなきっかけになったらうれしいです。
生きるうえで受け取る「当たり前」
人は生きる上で、自分が意図しなくてもさまざまな「当たり前」を受け取っていく。家庭の習慣、地域の空気、文化の常識、誰かが先につくった価値観――。それらはいつの間にか自分の内側に層のように積み重なり、土のようなものをつくっていく。自分では選んだ覚えがなくても、いつのまにかその土の上に立っている。わたしにとっての「当たり前」も、そんなふうにできていた。
父が教員ということもあり、教育という世界は特別なものではなく、どこか身近な空気のように存在していた。進路を考えるとき、父にすすめられて教育学部を受験したのも、大きな決断というより生活の延長線のような選択だった。ひとり暮らしに漠然と憧れがあったから、教育学部に行って教育を学ぶことよりも、どんなごはんを作ろうか、家具はどんなものを選ぼうか、自分の暮らしを一から作っていけるというわくわくと、新たな人生がスタートする高揚感でいっぱいだった。
だから、どうして教育学部に入ったかという問いに対して、自分の中でも明確な答えがあるわけではない。ただ、その方向に自然と流れていった――そんな感覚に近い。強い意志ではなく、小さな習慣や、誰かの影響や、日々の延長で選んだ道。教育を学ぶことは、わたしにとってそんなふうに始まった。
大学で教育を学んでいた頃のわたしにとって、教育の仕組みは制度というよりも「環境」だった。時間割があり、クラスがあり、ルールがあり、正解がある。そうした構造は、特別なものではなく、そういうふうに成り立つ世界として静かに受け取られていった。疑問を持つきっかけもなく、不快に感じることもなく、まるで空気のようにそこにある価値観。自分がどんな「土」の上に立っているのかを深く考えることはなかった。
その時期のわたしは、揺らぎのない地面の上でまっすぐ育っていくことがごく自然なことだった。
大学の授業で触れた教育理念は、どれもまっすぐで、澄んだ光を帯びていた。
主体的で対話的で深い学び
自分で考える力を育む
その言葉たちは、疑いもなくわたしの胸に入ってきて、理想像として純粋に信じられた。この頃のわたしは、教育という世界をぼんやりと、光のほうから眺めていた。とにかく授業の単位を落とさないようにすることが第一で、みんなが受けるからとみんなと同じ授業を取って、特に目標もなく過ごしていた。後述するが、この頃のわたしは大学の外の世界に魅了されていたのだった。
大学三年生で一か月間ほど、教育実習へ行った。実習では、学習指導要領にのっとり、先生用の教科書をもとに授業をつくる。指導案には、導入・展開・まとめが整然と並び、想定される子どもの反応と教師の切り返しまで、すでに言葉になっている。その整った流れを崩さないようにすることに、当時のわたしは精いっぱいだった。
次はこの発問、このタイミングで板書、時間はあと何分。頭の中はずっと段取りで埋まっていて、目の前の子どもたちの表情を見る余裕がなかった。そんなわたしを救ってくれるのは、いつも手を挙げて発言してくれる子どもたちだった。実習生が困らないように、授業が止まらないように、空気を読んで言葉を差し出してくれる。その優しさに、胸の奥がほどけるような安心が広がる。――ああ、助かった。授業が成立した。
けれど同時に思う。これでは、どちらが先生なのかわからない。わたしは子どもに向き合っているつもりで、実は「授業」という枠のほうを見ていたのかもしれない。「できる子」がいると安心する。そして、その安心にすがってしまう自分がいる。「できる側」に居たいと願う切実さが、実習生であるわたしのまなざしの中にも混ざっていた。
表面的で、どこか薄っぺらいことに気づいていながらも、先生になるということはそういうことだ、と強引に自分を納得させようとしていた。子どもの頃を思い出してみると、わたしは小学校のころから真面目で、何でもできてしまうことが当たり前で、人から嫌われることが怖かった。こうしておけば「正解」だろう。誰からも悪く思われないだろう。そうやって、狭い枠の中で自分を正当化することで自分を肯定して生きてきたのだった。
もうひとつの根
大学時代のわたしの中には、教育とは別の「もうひとつの根」も静かに育ち始めていた。アパレルや飲食店のアルバイト先で出会う人々の価値観・物事の考え方。海外の旅先で見た、簡単に言葉にすることが難しいほど心を奪われた風景の色。日々の小さな暮らしを豊かにするための自炊。
それらは、わかりやすい正しさや構造の世界とは少し違う、もっと感覚的で、もっと身体のほうに近い学びだった。旅(非日常)と暮らし(日常)を行ったり来たりする過程で、生きることそのものをアップデートしていくような感覚があった。
岡山県・西粟倉での出会い
大学一年生の頃、父の仕事の手伝いをしているときに出会ったご縁で、岡山県・西粟倉村の国内留学プログラムに参加することになった。それは、自分が育ってきた世界とはまったく違うリズムで生きる一か月だった。
有機野菜の食卓。日中は身体を動かし、たっぷりと陽光を浴びる。暗くなれば自然に眠くなり、朝は鳥の声で目が覚める。主に英語のみで通じ合う暮らし。暮らしをベースに、地球のリズムに合わせて生きるというのは、なんと心地よいのだろう。身体と心がしっかりつながる心地よさ。この一か月の経験が、生きることへの態度を磨いてくれたように思う。
西粟倉でのホームステイをきっかけに、大学二年生の夏、国際ボランティアのサイトを利用して、生まれてはじめて海外へ出た。自分でオーストラリアのステイ先へ連絡を取り、メールだけのやり取りであっさりと採用が決まる。その時は、家政婦的な内容の仕事だった。とても刺激的な日々だったけれど、言葉が通じない場所で過ごすことは、とても心細かったし、自分の英語力のなさというよりも、思いを伝える力のなさに直面し、落ち込んだ。
伝える、伝わるというのは言語よりももっと深いところで起きているのだとこのときはじめてわかった。これは、教育の枠の中だけでは出会えなかった感覚だった。
その後も、東京を拠点とするNPO法人が主催するワークキャンプ、外務省の派遣プログラム、教授の調査への同行、一人旅、大学のインターンプログラムなど、さまざまなかたちで海外へと出向いた。
モンゴル人のゴツゴツした手の感触
タイの路地の、すっぱいような匂い
ミャンマーで暮らす人々の、慈愛に満ちた笑顔
ふとした瞬間、いまだにそれらを思い出す。たまに脳内記憶ポケットから取り出しては眺めて、大切にしている。特にモンゴルの草原で見た夜空は格別だった。地面すれすれまで降りてくるような星々。寒空の下、みんなで肩を寄せあいながら見上げた星の海。あのとき、わたしは生きているという感覚をはじめて身体の中心に宿した気がした。
こうして振り返ると、大学時代のわたしは二つの土壌の上に立っていたのだと思う。教育という枠組みの内側で育った整った土。旅や出会いの中で育っていく野生の土。どちらも本物で、どちらもわたしを育ててくれていた。
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